Kengonの書きたいブログ

狸小路商店街最重要思想家 兼スノーボーダー

読書

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

本を読む。

穴の空いたバケツに水を入れるが如く、本を読んで知識を得ていくのと同時に、一方で知識を忘却し、知識が抜け落ちていっているのでは無いか、という虚しさを感じることがある。

 

従い、私は意識的に、読書を2パターンに分けている。一つは、新たな知見、視点を得ることを目的とした読書(パターン①)。もう一つは、知識を定着を目的とした読書である(パターン②)。

 

パターン①の読書として、本屋で平積みされている新刊であったり、好きな作家が勧めていたり、著作の中で文が引用されている本に興味を持って、主に読んでいる。

 

本を多く読むことについて、いささか罪悪感、抵抗感を少々感じることがある。

知識はありすぎてはいけない、という人もいる。多くの知識はときに判断を迷わせるからだ。必要十分の知識に抑えておきなさいという、仏道の教えもある。ショーペン•ハウワーのように、多読は悪だという人もいる。読書は他人の考えを自分の頭に判で押す様な行為であり、自分の頭で考える事を妨げるからだと、彼はいう。ただし、古典の多読はOKとのこと。

 

だが、そういった考えを踏まえても、私は多読をやめることは無いだろう。有り難い参考意見として、受け入れている。

 

パターン①で読んだ本については、フィルターにかけ、その知見について、パターン②の読書で定着化を図る。定期的に読み返すのである。強く印象に残った本であっても、その内容をメモ書きしたとしても、悲しいことに、忘れる。そういうモノである。

 

再読あるのみである。良い本は再読の度に、発見、気付きがある。一回目は流して読んだ部分が、その時の自分の状況、心境に応じて、深く刺さる内容となる事がしばしばある。

 

今後、再読したい本が積み重なっていき、いずれ苦を感じるようになるかもしれない。パターン①と、パターン②の配分も悩ましい。

本との付き合い方には正解は無い。

多読を好む一方で、座右の書となるような、一冊を見つけて、それだけ読めばヨシと思えるような心境にも憧れる。

 

そして今日もAmazonで本をポチり、陽はまた暮れてくりかえす。