Kengonの書きたいブログ

狸小路商店街最重要思想家 兼スノーボーダー

反応と意思

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

ある研究によると、意思が先で行動が後、ではなく、行動が先で意思が後だというのです。

人間による行動は何かしらに対する反応によるものであり、いわば後付けの意思により自分が自分をコントロールして行動出来ていると錯覚しているというのです。反応のみで生きていると言われる昆虫と所詮同レベルなのだと、思ったことがあります。


極端な例で言えば、右手を動かすにあたり、右手を動かそうという意識の信号は、右手が実際に動いてから後追いで発生しているというのです。

自己啓発本

今日もブログが書きたくて仕方がない。

世に出てるビジネス本、自己啓発本を休職中に読み漁った時期がありましたが、たまたま運よく行った経験の自慢話にしか思えず、大概の決まり文句「こんな私が出来たのだから、あなたにもきっと出来る!」と、バックボーンも能力も運も何もかも私と違うあなたが何を根拠にそう断言できるのだ?と思う様になってからは一切読まなくなりました。ホリエモンの本では、上の台詞は言ってませんが危険だと思います。

勉強方法

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

なんやかんやあり、久々の投稿である。実になんやかんやあった。今回は、大分昔にまとめた勉強方法について書いてみようと思う。勉強というのは、ゾーンに入る事も出来るし、達成感も得る事が出来る。自分の好きな分野の勉強であれば、勉強するという行為から享受できるメリットは大きいと思う。

 

と、本題に入ろう。具体的な勉強法について記述していこう。具体的といっても、シンプルに、とにかく反復して読め!という話である。

 

「教科書は1冊を10回読め!」大概の人は本や教科書を1、2回読むだけで理解しようとする。そして案の定、「自分には、理解できない」と簡単にあきらめてしまう。


大抵、参考書を最初から熟読して理解しようとしても、うまくいかない。理解できなくて心が折れる。自己肯定感がズタボロになる。順を追って最初から最後まで読み進めるのが正と考えて真っ向から挑もうとしてしまうから。何故か染み付いている考えなので、気を緩めるとついつい上記のような読み方をしなければならない、というバイアスにかかってしまうから要注意だ。そんな必要は全くない。最初の1回なんて流し読み、というか、流し見で良いのだと思う。


■STEP1 1~3回 流し読み


スピード感覚重視。
理解不可能でもなんなく、とにかく読み流す。
書いてあることをぼんやりと見るという感覚で、どんどん読み進める。


■STEP2 4~6回 しっかり読む


1行1行を丁寧に読む。
1行に時間をかけて、疑問がでればチェックする。
内容を観察するようなイメージ。


■STEP3 7~10回 全体を読む


全体の構成を把握。
流れをもう一度イチから理解。
全体に光をあてて、全体と一部をいったりきたりするイメージ。


7回読み勉強法という勉強方法を紹介した本を、弁護士の方が昔出していたので読んだ記憶がある。それと同じ勉強方法だ。最初は、読まずに見るという感覚が、最初はなぜか罪悪感を感じてしまうのだが、そこを、バイアスを外すような気持ちで、ざっと眺めるように、とにかく読み通すことが大事だと思う。

眺めて終わっただけでも、小さな達成感が得られる。小さな報酬がある。そして、2回、3回と繰り返すと自己肯定感も生まれてくる。
眺めるときに、重要度の記載があるテキストならその点を意識して、メリハリをつけるとなおよいと思う。

勉強を、壁へのペンキ塗りと例えるなら、端から順々に完璧な色合いで丁寧に塗っていくのではなく、薄いペンキでさーっと、全体を軽く塗っていく行為を繰り返すような作業にすることだ。
一回一回は、ペンキの濃度は薄いが、塗り重ねていくうちに、濃くなっていく。
短期間で全部塗れるごとに達成感がある。
端から順に丁寧に完璧に塗っていこうとすると、達成感はなく、途中立ち止まったときに、残りの時間を考えると絶望感を感じて、挫折してしまう可能性が高い。ペンキを薄く、何回も塗り重ねていこう。

0.3%

今日もブログが書きたくて仕方がない。

筋トレ(筋肉に負荷をかけることで筋肉の成長を促し、筋出力を高めるトレーニング) だけにフォーカスした場合の継続率は驚愕の0.3%である。

今日はトレーニング日だと、予め決めておいても、筋トレやめておくか‥‥と思考が必ずなる。その度にこの事実を想起して、自らを奮い立たせているのである。

それにしても、一年継続率が1000人に3人とは、何回聞いても、なんとも驚愕の数値である。これはもう、何度でも書こう。

 

 

 

筋肉痛という承認

今日もブログが書きたくて仕方がない。

筋肉痛は心地良い。何故だろうか?一つは筋肉に(?)承認されたと実感するからではないか、と考えている。

適度に筋肉へ負荷を与えれば、筋肉痛という分かりやすいレスポンスがある。昨日行ったトレーニングは適切だったのだと、程良く効かせる事が出来たのだと、筋肉が自分を認めてくれるような感覚がある。自分の筋肉から承認を得た気持ちになり、心地良さを感じるのではないかと思う。あくまで私の場合ではあるが。

そう、私は承認欲求の奴隷なのである。そう、明らめよう。

キーボード

今日もブログが書きたくて仕方がない。

ブログや日記を書くために折り畳みキーボードを持ち歩いている。iPhoneiPad miniBluetooth接続して使うキーボードである。

だが、不要なのではないかと考えている。フリック入力で事足りるのでは無いかと。そんなにキーボードで速く入力できるものでもないし、速く入力する必要もないのではないかと思えてきている。思考量が、キーボードの入力の速さを上回ることもあるが、下回ることは、ざらにある。

ポータブルキーボードをいくつか買い、吟味した結果、今持っているものに落ち着いたが、使いこなしているとも言えない。だが、Kindle読書のページ巡りには重宝している。あと、キーボードを拡げてタイピングしていると、「何かやってる感」は出る。

ミニマリストをつきつめるならば、キーボードは要らないのかもしれない。フリック入力で全て事足りるのかもしれない。だが、キーボードの打鍵感は気持ちが良いものである。この気持ちよさというメリットを享受するのに、対価として、持ち運び、管理するというコストを払う事に合理性はあるのか?とふと考えてしまう。

だが、これ以上にミニマリストを突き詰める気は、現状あまり無いと考えている。本を出すレベル、YouTubeで有名になるレベルのミニマリストさん達の断捨離ぶりはスゴい。手放すことで、スッキリとはするだろう。だが、あまりに手放してしまうと、やはり寂しい。程良く手放す、中庸がよいのだ。手放す量のちょうど良い具合も、人によって異なるものである。筋トレの3原理、5原則の中に「個別性の原則」があるが、これが当てはまる。筋トレの原則は、大概の事に当てはまる。

と、キーボードの話から色々と脱線し、脱線したまま、最後は筋トレの話で終わるというパターンである。私はいま、筋トレにかぶれているのである。