Kengonの書きたいブログ

狸小路商店街最重要思想家 兼スノーボーダー

読んでしまっている

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今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

本は「読む」、のではなく、気づいたら「読んでしまっている」、というのがいいと思う。その感覚を大事にしている。

 

読まなくては、という意識から読んでいるのではなく、自分が欲して読んでいるという感覚を大事にしたい。自然と、「読んでしまっている」、そのような内容こそ、今、自分が、本当に欲しており、必要な情報だと思う。それ以外の情報を、時間とエネルギーを使って、得る必要性を感じられない。

 

私の具体的な、本の読み方を示す。
本を手に取って、前書きを読む。ざっと、その本が伝えようとしていること、著者の視点、立場を確認できると思うからである。その後に、あとがきも読む場合もある。次に目次を見る。興味がありそうな章題のページ数を確認して、その部分を「読む」、というか「見る」。自分を、他者とみなして、興味があるか、どうか、チラつかせるような感覚だ。猫の眼の前に、猫じゃらしをチラつかせるような感覚である。興味があれば、自然と自分は読み始める。気づいたら「読んでしまっている」、という感覚だ。

 

読みたくないと判断すれば、また目次に戻る。そしてまた気になった章題を探して、その部分を見る。興味があれば、「読んでしまっている」。その繰り返しだ。その読み方で、一通り終わったら、パラパラと最初から最後までめくって見る。途中で気になる部分があれば、「読んでしまっている」。


従い、私は読書に関して、苦痛は殆ど感じない。読みたいと思わない部分は読まないからだ。多少難解な文章が出てくると、少々苦を感じることもある。だが、興味があれば、労して読む。大した苦ではない。

 

何故か、本を、最初から最後まで、順番に、すべてを、読まなくてはならない、理解しなければならない、という義務感を勝手に自分に課す人もいる。これも一種の認知バイアスだ。私はそのような考えからは開放された。興味が無いと判断したら、執着せずに秒で読むのをやめた方がいい。興味が湧く本は、この世には他にゴマンと溢れている。それがストコーマ(盲点)になって、上記の義務感を課すのであるから、本当に脳は愛すべきアホである。

 

気づけば、最初の1ページから最後のページまで、「読んでしまっている」本に巡り合うこともある。かなりの当たり本である。