今日もブログが書きたくて仕方がない。
多読を批判する人でも、古典は別であり、読むなら古典を読めという。
数多の本が出版されてきた中で、淘汰されて、残った書物であるから、読む価値があるのだろう。
かといって、無条件に、今の自分に刺さるか否かは別ではある。
古典の訳は読みにくい。訳されたのが、数十年も前の本がざらに売っているように思える。時代に即していない。需要はあるとは思うのだが、新たに訳し直して、売るというのは、何か業界や学会の、大人の事情があって難しいのかも知れないと考えている。
マルっと、古典を翻訳し直した本ではないが、エッセンスとなるような部分を抜き出して、現代風に訳した、「超訳シリーズ」という本があるのだが、私は好きだ。意訳しすぎて、訳者の主観が入っている可能性が高いが、それを前提にして楽しむことが肝要だ。好きな作家が、超訳している本もあるので、それは、古典の著者と好きな作家のコラボレーション作品として、ダブルで、楽しめる。
ギリシャの古典をもっと読みたいとは思っているのだが、人名の癖が強くて、そちらに意識がいってしまう。内容が頭に入って来ない。
また、世間で大評判の名著であろうと、自分の心の歯車と噛み合わぬ本は投げ出した方がよい。敗北感や劣等感は不要である。
たまたま運よく残って名著となった本や、今や時代にそぐわない古典も存在するという認識が肝要である。