Kengonの書きたいブログ

狸小路商店街最重要思想家 兼スノーボーダー

Apple Watch

今日もブログが書きたくて仕方がない。

昨日、iPhoneiPad miniについて書いたので、Apple Watchについても書いてみよう。

私はApple Watchをここ数年着用し続けているが、不要なのではないだろうか。腕時計自体が不要なのではないだろうか。時間を確認するならiPhoneで事足りる。道ゆく人をみると、今まで気づかなかったが、腕時計をしていない人は結構いる。

Apple Watchの使用の為にコストがかかっている。毎日の充電。毎日の着脱。外出先にはいざというときの充電器の備えが無いと、その不安に気力を割かれる。充電器は少々特殊だ。また、今日付けていて感じたが、傷を付けてしまうのではないか、という不安に常に晒されてる。対して享受できる大きなメリットは何であろうか?スケジュールの通知はあまり信用ならない。何故ならGoogleカレンダとの同期にタイムラグがあるからだ。リアルタイムに近いタイミングでは更新はされないらしい。通知してもらって、ああ良かったということはない。

今、ふと思い出したが、心拍数が上がった場合に警告してもらえる機能は秀逸だと思う。その機能の為に高城剛氏がApple Watchを手放すのをやめた話を思い出した。頻度はさほどは無いが、いざというとき、何かと対峙し、不覚にも心拍数が上がるという、いわば危機的状況時に自分を客観視出来るキッカケを与えてくれるのは大きなメリットと言える。あと考えられる機能として、大きなメリットといえるのSuica機能だ。北海道に来てからというもの、あまり公共交通機関を利用することがない。地下鉄には少し乗るが。その程度である。Suicaへのチャージが、心を抉られる。オートチャージにはビューカードというクレジットカードが必要なのだが、クレジットカードはあまり使いたくない。苦である。それを明らめよう。

小さな行動、必要なタスクを削っていった結果、何が残るのか?タスクが減った直後はその差異を実感し、快を感じるだろう。だが、必ず馴化して何も感じなくなる。ニュートラルに近づいたことを実感し、そのメリットを意識し続けることは出来るのだろうか?反対に虚しさを感じて、苦を感じる結果にならないだろうか?

引越しをしてからモノは減った。今はそれが普通になり、快は感じていない。むしろ、手放したことにより、寂しさを感じる瞬間も、最近あった。だが、手放していなかったら、部屋はモノで溢れて苦を感じていただろう。その苦を回避し、今は「何も感じていない」状態を手に入れているのだろう。I have nothing である。何も感じない、ニュートラルこそ、真の快である。刺激物、何かの反応による快はオマケである。