Kengonの書きたいブログ

狸小路商店街最重要思想家 兼スノーボーダー

読書音痴

今日もブログが書きたくて仕方がない。  

私は読書音痴である。そう自覚している。本の読み方が定まらない。人より多くの本を読んではきたとは思う。だが一概に多読が良いものとも思ってはいない。多読を批判するショーペンハウワー先生の言葉がいつもチラついているのである。だが、常に新たな考えに触れたい。コンスタントに触れ続けていきたいと思うので、新しい本を読み続けることはやめられないし、やめる必要はないとは思う。大概は、別の本でも読んだことがある内容だなと思う内容の本ばかりではあるが、時折、ああこの考えは全く無かったというような発想に出会うことはあるのだ。きっと無限にあるのだろう。そう思える考えにコンスタントに触れていきたいとは思ってはいるが、触れすぎても、迷いを生むことに繋がるとは思うので、手放しに、読み漁るという行為は控えたいとは思う。だが、読み漁らないと、そのような考えに出会う機会がない。もっと効率的に、そのような本に出会えるための仕組みを作る必要があるのかもしれない。偶然による幸運、セレンディピティを狙うのも良いが、もっと戦略的に選書をしていくというは、今後の課題である。

一方、これまで読んできた本を、再読したいという欲求も常にある。読んだ内容は忘却してしまう。心に刺さった内容でも時間が経てば忘れてしまう。日常生活における意思決定に、作用できた実感を持てたとしても、しばらくするとポロリと意識から抜け落ちてしまっている。ガンジー曰く、寝て起きる度に、人は別人になっているのであるから、一晩を挟んで、綺麗さっぱり抜け落ちてしまったとしても、なんら不思議ではない。再読して、ああ、そうだ、この考え方が素晴らしいと実践できていた日々もあったが、今ではすっかり忘れてしまっていた、ということばかりである。これまで読んできた殿堂入りとも呼べるような本を、時々読み返しては、その内容を再度認識して、生活に取り入れる。そしてまた忘れる。また読んで思い出す。その繰り返しだ。

殿堂入りと思える本も増えてきた。読み返すのも一苦労に感じてしまう。殿堂入りの本から、更に殿堂入りと思える本を絞り出すことが必要になってくる。搾った上での、フォーカスした上での、珠玉の本を読み返して、その考えを習慣化し、血肉にすることが肝要である。