Kengonの書きたいブログ

狸小路商店街最重要思想家 兼スノーボーダー

今日もブログが書きたくて仕方がない。  

熱はIQを低下させる。焦りがIQを低下させるのと同様だ。熱を帯びたCPUが処理能力を低下させるのと同様である。

昭和の文豪、芥川龍之介が自殺する2日前は記録的猛暑だった。暑さのあまりに、自殺をした男の新聞記事を先日Twitterで見た。クーラーも扇風機もない、昭和の時代。逃げ場のない、暑さを想像するに、気が遠くなる思いである。心地良いと思える気温の中で生活、行動することは、精神衛生上、大事な事だ。

最近読んだ、筋トレ指南本があるのであるが、扇風機について言及されていた箇所があった。トレーニングをすると体温が上がる。体温が上がり、汗をかく。熱が上がりIQが低下する。汗ばんだTシャツは不快である。その状態は未然に扇風機をかけることで回避する。このような小さなともいえる、我慢すべきと考えてしまう不快感を丁寧に取り除くことが、継続する為には必要だと思う。

手ぶら

今日もブログが書きたくて仕方がない。  

手ぶらはフットワークを軽くしてくれるが、不安感は、正直、ある。最近、空港にいく機会が多いが、大きなスーツケースを転がしている旅行客の方をよくみる。中には、衣類をはじめ、多くのモノが入っているのだろうと思う。だが、本当にその量が必要なのだろうか、と思う。多くの荷物をとりあえず手元にし、持ってきているという感覚は安心感をもたらす。その対価としての管理コストと見合うかという問題はあるが、安心感は確実にもたらしている。実際には、旅へ持ってきたものの結局、旅行中に一度も使わなかったというものもあるだろう。だが、安心感をもたらしてくれたことに、旅行に持ってきた意味はある。


私は今回はほぼ手ぶらであり、持ち歩く荷物は最小限であり、その確信はあるのだが、何か、どこか、もの寂しく、不安を感じる瞬間がある。
昨晩、宿で、ほぼありったけの荷物を拡げてみたのだが、所有物に囲まれる安心感を感じた。所有物で周りを満たす、マキシマリストの気持ちが分かった気がした。


モノの所有は執着を産み、思考と行動を縛るが、安心感をもたらすという大きなメリットはある。同時にそれを失うことに対する恐怖、不安感をも生み出してはいるが。脳はアホなので、その安心感にフォーカスしていれば、その他の感情はストコーマ(盲点)となる。その状態も時間的に長くは続かないのではあるが。

腕時計

今日もブログが書きたくて仕方がない。  

腕時計は不要なのではないかと、昨日のブログに書いた。外泊を伴う、外出をしているが、思考実験として腕時計をはめずに出掛けてみた。電車の時刻や、お店の開店時間など、想定以上に時間を確認するケースは多いと感じた。そのたびに右手のポケットに手を入れてiPhoneを取り出して確認するのは、想定以上にストレスであると感じた。そして、左手の手首に何もないことが、心許なく感じてしまう。端的にいうともの寂しい。まだ1日だけではあるが、このストレスには耐えられないかもしれない。腕時計は必要、との結論に至る。

希望

今日もブログが書きたくて仕方がない。

人は希望がなければ生きていけないのかもしれない。たとえ、それが最終的に叶わなくても。むしろ叶ってしまうと、その瞬間は大きな快を感じるが、目標が無くなったことに苦を感じるだろう。よって、達成時の快は目標ではあるものオマケと考えるのが良い。その希望に向かって、毎日、ほんの少しでも進んでいるという実感が持てれば、生きていける。

Apple Watch

今日もブログが書きたくて仕方がない。

昨日、iPhoneiPad miniについて書いたので、Apple Watchについても書いてみよう。

私はApple Watchをここ数年着用し続けているが、不要なのではないだろうか。腕時計自体が不要なのではないだろうか。時間を確認するならiPhoneで事足りる。道ゆく人をみると、今まで気づかなかったが、腕時計をしていない人は結構いる。

Apple Watchの使用の為にコストがかかっている。毎日の充電。毎日の着脱。外出先にはいざというときの充電器の備えが無いと、その不安に気力を割かれる。充電器は少々特殊だ。また、今日付けていて感じたが、傷を付けてしまうのではないか、という不安に常に晒されてる。対して享受できる大きなメリットは何であろうか?スケジュールの通知はあまり信用ならない。何故ならGoogleカレンダとの同期にタイムラグがあるからだ。リアルタイムに近いタイミングでは更新はされないらしい。通知してもらって、ああ良かったということはない。

今、ふと思い出したが、心拍数が上がった場合に警告してもらえる機能は秀逸だと思う。その機能の為に高城剛氏がApple Watchを手放すのをやめた話を思い出した。頻度はさほどは無いが、いざというとき、何かと対峙し、不覚にも心拍数が上がるという、いわば危機的状況時に自分を客観視出来るキッカケを与えてくれるのは大きなメリットと言える。あと考えられる機能として、大きなメリットといえるのSuica機能だ。北海道に来てからというもの、あまり公共交通機関を利用することがない。地下鉄には少し乗るが。その程度である。Suicaへのチャージが、心を抉られる。オートチャージにはビューカードというクレジットカードが必要なのだが、クレジットカードはあまり使いたくない。苦である。それを明らめよう。

小さな行動、必要なタスクを削っていった結果、何が残るのか?タスクが減った直後はその差異を実感し、快を感じるだろう。だが、必ず馴化して何も感じなくなる。ニュートラルに近づいたことを実感し、そのメリットを意識し続けることは出来るのだろうか?反対に虚しさを感じて、苦を感じる結果にならないだろうか?

引越しをしてからモノは減った。今はそれが普通になり、快は感じていない。むしろ、手放したことにより、寂しさを感じる瞬間も、最近あった。だが、手放していなかったら、部屋はモノで溢れて苦を感じていただろう。その苦を回避し、今は「何も感じていない」状態を手に入れているのだろう。I have nothing である。何も感じない、ニュートラルこそ、真の快である。刺激物、何かの反応による快はオマケである。

iPhoneとiPad mini

今日もブログが書きたくて仕方がない。  

手ぶらを突き詰めたい。毎日それを考えている。持ち物の最適解を毎日考えている。iPad miniを持ち歩くかどうかを毎日考えている気がする。これについてはいまだに結論がでない。

iPhoneと充電バッテリーはマストだと思っている。後はキーボード。文章を打つのにiPhoneフリック入力だとかなり体力を消耗する。目を画面に近づけて、指を動かすのは結構地味に体力を消耗するのである。画面から目を離して、キーボードで文字入力することは、心地良い。そう考えると折り畳みキーボードは常備したいと考えている。かといって、そんなに大量に文字入力をする必要性は今の私には無いのだが。だが、私はよくKindle読書をする。フリックでのページ捲りも地味に体力を奪う。キーボードを手元において、矢印キーでページを捲ると読書が捗るのである。そうも考えるとやはり、キーボードの携帯は外せない。

iPad miniだ。これはKindle読書が捗る。タイトルによっては、iPhoneの画面サイズでは通読に耐えない文字レイアウトの書籍も存在する。そう考えると常備したいのだが、いかんせん重い。ズボンのポケットに入れるものの、確実にその重さがズボンをズリ下げる。そして体力を容赦無く奪う。フットワークを重くする。うーむ。悩ましい。

先日の台湾旅行には持っていかなかった。振り返ってみると、iPad miniをもってくればよかったと思う場面は一度もなかった。そう、無かった。やはり必要無いのか。執着してるだけなのか。確実に執着していると言える。必要であると思いたい。

改めて考えるに、iPad miniiPhone Proの中間である、大型iPhone、つまりはiPhone Pro MAXを持ち歩けばよいのではなかろうか。そこに終着するのではなかろうかと。さすれば、若干画面が大きくなることで読書も捗り、管理もデバイス一台に集約出来る。次回のiPhone乗り換えはPro MAXでいってみようとおもう。これも思考実験だ。イマイチならproに戻せばいい。だが、Pro MAXに執着が生まれ、買い替えは困難なのだろうなぁ、と思うのである。

iPhoneiPad miniの常備問題に、こんなにも、地味に、つらつらと長い文章を私は書いている。相当、脳のメモリリソースと限りある時間を奪われているという事実を明らめる必要がある。これを永遠のテーマ、にしてはいけない。

モチベーション

今日もブログが書きたくて仕方がない。

ものごとの達成にモチベーションは不要である、と誰が言っていたが、私は腑に落ちてはいなかった。日々の行動にモチベーションは必要不可欠だろうと。

だが、今日の散歩中にこう思った。私は今、太ってしまっている。この状態になったのは、日々の行動の積み重ねであるが、そこにモチベーションはあったのかと。太りたいという、モチベーションはなかったのではないかと。太るということは、一つの現象であり、本来は良いも悪いもない。悪いことだから、モチベーションがなくともその結果に至ったのだ、ということはない。単に習慣が、太るという結果に至っただけだ。そこにモチベーションは無い。

なので、逆に痩せる為にも、強いモチベーションを常に維持させる必要は無い。痩せるに至る習慣を作ってやれば良いのである。この習慣を作るのが1番難しいのではあるが。

日々の食事管理をマクロ管理法に変えた。朝の散歩を習慣にした。どちらも特に頑張ってはいない。努力している意識もない。強く痩せたいというモチベーションを、今は抱いていない。考え方を変えただけである。だが、前述の通り、人生最後のダイエットは順調である。考え方を変えられたのは、つまるところ運なのかもしれない。脳科学者の我らが中野信子姉貴曰く、運は科学的に向上させることが出来る。一つはとにかく打席に立って、バットを振る事だ。だが、バットをめげずに振る為には、強いモチベーションが必要なこともあるだろう。なんだ、結局は強いモチベーションは必要ではないか。

まぁ、モチベーションはやっぱ必要だよね。