Kengonの書きたいブログ

狸小路商店街最重要思想家 兼スノーボーダー

お持ち込み

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

マクドナルドに来た。

近くの席の子連れのファミリー。明らかに持ち込みのペットボトルのお茶を飲んでいた。

店員さんが、「お持ち込みはご遠慮ください」と注意していた。大変なお仕事だなぁと。ちゃんと注意していてすごいなぁと、素直に思う。

 

さて、ファミリーの方だが、店員さんが去ったあとに、小さい人が「別にええやん」と毒付いていたので、心がモヤモヤ。

 

この子を諭すのは、私の仕事では無いし、モチベーションも無いが、敢えて諭すならと、考えてみた。

 

「君の家に友達が訪ねて来たとしよう。だが、その友達は、君の知らない別の友達を連れて君の家にやってきた。そして、君の友達は君とは遊ばないで、その連れてきた別の友達と遊んでる。君の家の中で。」

 

「さて、君はどう思う?」

 

モノの量

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

部屋に置くモノの量について。

モノが少ないと、部屋での動作音が空間に響くのが分かる。この感覚が好きだ。モノがあると音を吸収してしまうのだろう。

 

ちょっと話はズレるが、雪山の中に行くと、シーンと静まりかえっているのは雪が音を吸収しているからだ。

 

話を戻そう、空間に音が響くかどうかを、モノを置く量のリミットラインにしよう。音が空間に響く感覚は私に快をもたらす。

検索

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

今はwebで何でも検索出来るし、何でもchat GPTに聞く事が出来る。

 

だが、その検索行為が億劫なのだ。

スマホを取り出し、ブラウザアプリを開いて、検索用語を打ち込んで、検索ボタンを押す。望んだ結果が出ないかもしれないという不安の苦もある。

 

なかなかに億劫である。

この心理的障壁を極限まで減らしたい。

文字入力は手で打ち込みたくない。かといって音声入力は周りの目が憚られる。口パクで読み取って欲しいと考えている。

 

街でイヤフォンを常時着用(外部音取り込み設定)していて、気になることがあったら、口パクでチャットGPTを起動、口パクで質問を入力、音声で解答を返してくれる。そうだ、それがいい。

 

実際に、口パク入力については下記のように開発が進んでいるらしい。素晴らしい!

 

https://fabcross.jp/news/2023/20230527_echospeech.html

https://www.itmedia.co.jp/news/spv/2302/24/news049.html

 

口パクでチャットGPTに質問出来る日もそう遠くは無さそうだ。楽しみである。

書く

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

書きたくないときは書いていない。

書く為に考えることは無い。

書きたいことが出てきたら書いている。

 

書くこと自体を目的に考えて書いた文書には違和感がある。それは読者様にも伝わる。

 

書きたくて書いた文書は伝わると思うし、例え伝わらなくとも、自分の考えを言語化できたことで私は十分満足なのである。

 

 

 

言語化

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

何か出来事に反応して、心がモヤモヤとする。

 

モヤモヤと苦を感じる。

何故モヤモヤするのか、明確に分かるときもあれば分からない事もある。

 

分からない、何故かモヤモヤする。

しばらく考える。何故自分はこの出来事に反応し、モヤモヤとした苦を感じているのか、この出来の何に対して反応したのか?

感情がまず起こり、理屈を考える。

 

こういう理屈によって、私はそう思うように意図的に選択して、感情を起こすものではない。という事だ。

 

感情は起きるものであって、起こすものではない。殴られて、痛みを自動的に感じるのと同じで、何かの外的刺激によって、自動的に感情が起きる。

 

なぜ、この感情が起こったのか、を考えて、言語化して整理することが出来ると、ああそうか、だから私は怒りを感じたのだ、モヤモヤを感じたのだ、と理屈が分かると感情が治まるのを感じる。冷静さをとり戻せる。ときにスッキリさせる事が出来る。理屈を言語化することによって、感情を鎮めることが出来るように思う。事象を客観的に観ることができるようになるから、というのも理由かと思う。

 

もし、これが言語が無い世界だったらどうなのかと考える。言語無しに、理屈を考える事は可能なのだろうか?理屈を考えられなければ、モヤモヤの原因を把握したり、考えたりすることは可能なのだろうか?言語が無い、動物の世界でも、動物達は怒りやモヤモヤを感じることはあるだろうが、彼等は理屈を思考して、人間のようにスッキリすることは出来るのだろうか?

 

この世界に来て、物心がついた時には言語を習得していたので、言語の無い世界が想像つかない。

 

私は言語化して、スッキリとしたい。このブログを書いている理由の一つもそうだ。自分が考えていることを言語化することによって、内容がより整理されて、スッキリとする。書いても、モヤモヤのままの場合もあるが。

 

言語があって良かったと思う。

私は言語が、好きなのだと思う。

国道沿いの歩道

今日もブログが書きたくて仕方がない

 

今日も生きている。ケガもなく生きている。有難いことだ。

 

人生は国道沿いの歩道を歩いているようなものだ、とも思う。歩道のすぐそばで、車がビュンビュンと走っている。縁石はあれど、物理的に遮断されているわけではない。何かの拍子でよろめいて、国道の中に急に入れば、猛スピードの車にぶつかり、即死である。だが、これまでの人生においてそんなことはなく、今日も生きている。だが、何かの拍子で国道の中によろめき入ってしまうことは、いつだってありうる。

 

人生において、特に、激しく致命傷に近い程に攻撃されることはなく生きてきたが、何かの拍子で、人の怒りを買ってか、通り魔か、事故か、分からないが、突然死に至る攻撃を受ける事もあるだろう。そう思い、常に戦々恐々としている。。。としたら外を出歩けないので、考えないが、ふとそう思う時がある。のうのうとこれまで生き伸びてこられてきたが、一歩間違えれば即死、という意識は毎日ある。

 

今日も私は国道沿いの歩道を歩いてる。

 

楽天ポイント

今日もブログが書きたくて仕方がない。

得られる金額と幸福度は比例しない。比例していたらとんでもない事になる。

私は、楽天が大好きである。楽天ポイントスクーリンというアプリが好きで、一つの広告バナーをクリックすると楽天ポイントが1ポイント、つまりは1円相当を獲得出来る。(日によって異なるが、3〜5つ程のポイント獲得対象バナーが用意されている。押してもポイントにならないバナーが多数あるので、その中から的確に対象バナーを見極めることが要求される。)

スマホを取り出し、アプリを開いて、1つのバナーをポチるという労力に対して1円相当が支払われる。費用対効果として考えると全くもって割に合わないとも考える人もいると思うが、この1ポイント獲得によって、微細ながらも、そこそこの幸福感を私は得られるのである。

仮に金額が幸福度に比例するとして、この1ポイントで得られる幸福度が基準になってしまった場合、例えば500ポイントを何かの条件で一括獲得したら、幸福の度合いがリミットを遥かに超越する。嬉しすぎて痙攣を起こして私は即死すると思う。

いつもそんな事を考えて、バナーをポチっている。比例しなくてよかったと。

比例していたら、私はもうこの世界にきっといない。比例しないことに感謝しかない。