Kengonの書きたいブログ

狸小路商店街最重要思想家 兼スノーボーダー

馴れ

今日もブログが書きたくて仕方がない。

 

みんなこの世界に馴れてしまって、そもそも、この世界が一体なんなのか、本気で考え続ける人はあんまりいない。考えても答えが出ないのだから、考えても仕方がないからか。考える暇もないほど、生きることに忙しいからか。

 

子供の頃は考えたのかもしれないが、大人になってから改めて真剣に考える人はあまりいない。私も大人になってから、大分経つが、暫くそんなことは全く考えていなかった。考えたかもしれないが、全く記憶が無い。考える事自体不毛だし、ナンセンスなのかもしれない‥‥とすらも考えていなかったと、思う。

 

子供の時ですら、この世界がなんなのか、友人と語り合った記憶はない。そもそも、「そんなこと」は話題にすら上がらない。物心ついた時には、すでに当たり前となっていたこの世界について、そもそもなんなのかを考えたり、語り合ったりすることは、不毛なのか。

 

どうやら、自分より、先にこの世界に来てた人達が結構な数いて、彼等が作ってきたルールや仕組みがあり、秩序が既にあった。それを教えてもらったり、真似したりして、そのお手本に沿って生きて、死んでいく。お手本から、意図せず、もしくは、意図して外れる人もいるが、全体からみれば少数派である。それがいいとか、悪いとか、判断する気はない。

 

ただ、もっと、そもそもこの世は何なのか、とか、何故生きるのか?という話が、もう少し日常的にあってもよさそうに思える。だが、それを話題に出すと、スピリチュアルな人とか、宗教に被れた少しアレな人、気を病んでいる人、と捉えられて一線を引かれてしまうことに、違和感があるなぁ、と思う次第である。上記の問いに答えてくれるのが、一応、宗教の役割なのだろう。だが、日本人は実質、無宗教に近い。私も日常では、こんな話を人に吹っ掛けたりはしない。比較的まともに扱われる哲学という学問分野もあるが、マニアックな学問の一つだ。日本の哲学者、と聞かれて、名前がまず思い浮かばない。かろうじて、哲学の道の、西田幾太郎か。だが、彼の思想までは知らない。そんなレベルだ。

 

この世界で、生きて、死んで行く事が、議論の余地が無い程に、「当たり前」になってるのだろうか。人類の歴史の中で、これはもう考えても仕方ない事だと、結論が出ていて、「当たり前」として扱う他なくなったのだろうか。

 

答えが無い事を考えることは、コントロール出来無いことを考えるようなものなのかもしれない。

 

なんの説明もないまま、伏線を回収せずに、唐突に終わりを迎えて、後は観た人の解釈にまかせる、といった形で幕を閉じる、観る人によってはモヤモヤする類の映画のようなものだろうか。自分自身が死んで、無に帰るのであれば、後の解釈も何もないか。せめて、死の間際に意識があるならば、私は最後にどう解釈するだろうか。

 

なんとも、とりとめが無い話だ。

これを青臭い話だと、自分でも思ってしまうのは、何かに毒されているからだろうか。