今日もブログが書きたくて仕方がない。
私は本が好きだ。
本の向こうには本を書いている人がいる。
故に私は人が好きなのだと思う。
だが、無条件に人が好きという訳ではなく、自分で本を書こうと思って本当に出してしまうような人が好きなのだと思う。
中には自分の意思で出したかどうかは分からない人の本、自分で書いたかどうか分からない人の本もあるが。
知らんけど。
今日もブログが書きたくて仕方がない。
私は本が好きだ。
本の向こうには本を書いている人がいる。
故に私は人が好きなのだと思う。
だが、無条件に人が好きという訳ではなく、自分で本を書こうと思って本当に出してしまうような人が好きなのだと思う。
中には自分の意思で出したかどうかは分からない人の本、自分で書いたかどうか分からない人の本もあるが。
知らんけど。
今日もブログが書きたくて仕方がない。
やりたい事と、やりたいと思っていたい事、は厳密には違う。
後者は、実はやりたく無い事だ。やってしまうのが怖いのだ。やるのが怖いのだ。
それはどっちだ?
今日もブログが書きたくて仕方がない。
私は店独自の価値観を押し付けてくるお店が苦手である。
良いか悪いかでは無い。法律にでも違反しないでも限り、押し付けるのは店の自由とも言える。私は苦手ではあるが。そのようなお店には足を運ばなければよいし、違和感を感じたならば撤退すれば良いのである。
だがそこで、対峙バイアスだ。克服しようとしようとしまう。闘うのが好きなのだろうか?損失回避バイアス、サンクコストバイアスか?
昨日、とある居酒屋の雰囲気に呑まれて自分を見失った。だが、料理は確かに美味かった。最後は気持ち良く店を出られた。終わりよければすべてよし、ともいう。だが、雰囲気に呑まれた事が悔しい。と。
まあ、そういうこともある。
と、明らめるのである。
全ては妄想。NO執着だ。
今日もブログが書きたくて仕方がない。
私は今、賃貸物件を探している。これぞという一室が見つかった。点数で言うと91点位だ。パーフェクトな物件は、運があればあるかもしれないが、今回は無い。全てはトレードオフだ。広さを求めれば家賃も上がる。安さを求めれば、立地が犠牲になる。
その中でも、これぞ!という物件を見つけると、テンションが上がり、快を感じ、直ぐにでも契約したいという気持ちが起こる。そして、誰か別の人に横取りされないか、苦を感じる。まさに執着である。「この物件しかない!」と興奮状態になったのを感じた。恐ろしい事だ。脳は時に愛すべき程にアホである。 執着が爆誕した瞬間だ。
一度内覧したのだが、念の為、もう一度、内覧してから明日に決めようと思っている。万全を期したい。
私は執着を自覚した。明日までに他の誰かに奪われたら、私は明らめる。他にも物件はある。
私は急いでいない。
今日もブログが書きたくて仕方がない。
動いていると、やりたいことは結構出てくる。
想定もしていなかったことが、突如、感化されてやりたくなったりする。既存の、積んである、やりたい事タスク達の優先順位をブチ抜いて、割込を入れたくなるような、ワクワクするようなことが、突如舞い降りたりする。
その為の時間、プラスバッファを考えると、ますます時間というリソースの制限を思い知る。
ますます、やりたく無いこと、やる必要のないモノは切り捨てていかねばならない。
ワンモーションを削っていかなければならない。
今日もブログが書きたくて仕方がない。
三上(みかみ)さん、の事ではない。
中国の故事に「三上」(さんじょう)という言葉がある。
馬上・枕上・厠上にいるときにいい文章が思いついた役人の話。文章を考えるのに最も都合がよいという三つの場面がある。馬に乗っているとき、寝床に入っているとき、トイレに入っているとき。である。
とくに、「馬上」。
現代だと「車上」にあたるだろう。一人でドライブしてるとふと良いアイデアが出たりする。馬上だと馬の闊歩のリズム。車だと高速道路の継ぎ目のリズムがある。この等間隔のリズムも考え事によい影響があると考えている。列車も線路の継ぎ目にリズムがある。
長い距離を移動することは、その環境に長くいることでもある。私の好きな言葉で「アイデアは移動距離に比例する」という、ハイパーメディアクリエイター高城剛さんの言葉がある。この「馬上」の考えにリンクすると思う。
なお、この言葉には、遠い土地程、文化が異なり、そこからアイデアを得られる可能性も高い、という意味があるとも勝手に考えて、そう解釈を私はしている。知らんけど。
敢えて、確認はしていない。
確認できるのか否かは知らない。
敢えて、しないでいる。